日々の備忘録

日々の出来事や考え事をまとめるためにつらつらと書いています

無題

特に脈絡もなく今の自分のきもちを淡々と述べて行きたいと思います。何となく。 

この前、わたしは自己肯定感というものとの自分なりの向き合い方。その過程とある一定の結論を書きました。描き終わった後、今一度自己肯定感についてや自分と人との違いやどうしてこんなにろくでもない面倒くさい人間に周りはついてきてくれるのだろうと考えていました。

話しは変わりますが、私にはいつもお世話になっているBARが会って、そこには親しい友人や男性を時たま連れていくのですが、連れていった後日、私は他人に対してどんな風に接しているのだろう。ちゃんと問題なく接しているのだろうかとふと気になり、店員さんに聞いてみた。彼女は私の問いにこう答えてくれた。「まりんちゃんが連れてくる人達、ここで会う男女年齢問わないお客さん達みんな平等に接していると思うよ。見た目で判断することも無くある一定のラインを守って話している。それがいい所だと思うよ。ただ思うのはこの子は誰にでも平等に優しく接するからある意味特別な存在や感情がないのかもと思った」と述べてくださった。あながち間違いではない。私はあまり人に執着したりのめり込んだりするのは苦手な性格だし、関心があるか無いかと言われば無いと応える。表面上は関心があるふうに装うことが出来るが文字通り装うことが出来るだけであって誰かに特別な感情や関心を抱くことは無い。人に優しいねと褒められることがあるのだがそれは否定する所も特にないし、感じ方も考え方も好むものも人それぞれ違うのに否定しても意味は無いから、肯定しているだけで、悪くいうと関心がないから優しくするのだと思う。だから人間的に好きとか友人として好きだとかそういった愛情は出てくるがそれ以上はない。冷たいと思われるかもしれない、でも自分の心を守るためには、世間と擦り寄せて生きていくためには必要な事だと理解して頂きたい。友人達は、「じゃあ我々にも無関心なのか興味が無いのか、今まではなんだった」と思われる方も少なからずいると思う。あなた達友人は私の思う最大限の愛情をめいっぱい表現しているつもりだし、無関心とか興味が無いわけではない。「特別な感情」が出てこないだけであって、そこに他意はない。申し訳ない。あなた達が毎回くれる優しさや愛情にいつも驚いてはいるが、そこは私を唯一自己肯定感の低さから守ってくれている様な気がする。人間らしくある生き方を保って入れるような気がする。話の最初に、どうしてこんなろくでもない私みたいな人間にこんないい友達や人間たちがいてくれるのだろうという考えはここからきています。申し訳ない。

また支離滅裂な文章を書いてしまった。すみません。私は利他主義であり他人にある一定の関心を持たなくなった偏屈で拗れていて厄介な人間です。そんな人間に性懲りも無く付き合ってくれている友人にはいつも感謝しています。最悪な例えですが、例えあなた達が人を殺めたとて法を犯す様なことが起きたとて私はあなた達の事が好きだとおもうし、あなた達同様見捨てることは出来ないと思います。

これ以上書いていたら恥に恥を塗り重ねてしまうのでやめます。さようなら。