日々の備忘録

日々の出来事や考え事をまとめるためにつらつらと書いています

近況について(他

お久しぶりです。2ヵ月が経ちました。寒くなったかと思えば暑くなったり自律神経が狂う秋でした。
この前雨が降って季節は冬に移り変わろうとしています。
私といえば、転職が決まり研修を受けています。完全在宅で研修を受けているので自由に働いていますが、思いのほか課題が難しく胃に穴が開きそうになりながらパソコンの前に噛り付いています。
会社の人とたまに進捗状況の報告とか相談乗ってもらったりするときもあるのですが、常にリモートかつそこまでお互いにパーソナリティを開示していないのでぎくしゃくしながら話しています。
在宅の何がいいって起きたての寝ぼけ眼で出勤打刻を押せることがいいですね。着の身着のまま仕事ができる。
ダメな社会人だなとつくづく実感します。「結婚できない男」みたいなモーニングルーティンは私には無理そうです。
話は変わりますが、最初で最後のビートルズの新曲が出ましたね。聞きましたか?
私は、配信で聞いて泣いて、MVでも泣きました。今の技術は本当にすごいですね、ジョンが本当に生きて歌っているみたいだった。まるで不自然な所は、私にはわからなかった。
彼らが活動していたころは、生まれてもいない時代でした。
まさか、生きている間に新曲が聞けるだなんて思いもしなかった。
親の影響で自然と耳にするようになって生活の一部だったものが美しい幕引きをする。本当に美しい楽曲で美しい終わり方でした。
今一度、聞こうと思って聞き直しています。
Rubber Soulもいいな、ホワイトもいい。Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandもいい。甲乙つけがたい。
でも今の心情とか疲労度ならRubber Soulの"Drive My Car”か"Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"かもしれない。
先日、彼がビートルズのEPレコードをどこからか買ってきました。家にはレコードプレーヤーはないのに。
レコードなんて集めてしまったら収集癖が爆発してしまうから自制していたのに、集めたくなってしまう。
そのうち絶対に家にレコードプレーヤーを迎え入れよう。
12月に東京に行く予定を立てています。いっぱい現代建築と美術館をみて酒を飲んで去年よりも楽しく過ごせたらいいな。

今の近況はこんな感じです。次は一体いつになることやら。来年になるかもしれないですね、悪しからず。
ではさようなら

閃きは彼方

先日、姫路まで行った。スミセイライフフォーラム「 又吉直樹の「生きる」~朗読と閃きの夜~」を観に行くために。
初めて降り立った姫路、いろいろと散策したい気持ちをぐっとこらえて会場に向かう。会場となるアクリエひめじがとても綺麗でこれを観に行くだけに来てもいいかもしれない。レンガ造りがとても綺麗で通り抜けロビーの天井をよくみると採光のためにつくられた窓がいくつもあり大ホールの受付会場でも半分は窓、半分は夜空を模したライトアップが装飾されていた。大ホールは2000人が収容できるような大きなもので三階席もあるようなものだった。
会場はほとんど満席で座る場所を確保するのが少し難しかったがステージ真ん中の右端の席を確保することができた。ついてから何も口にしていないことを思い出して自動販売機に水を買いに行く。観客は老若男女問わず来ている。
しばらくして開演のアナウンスがかかる。幕が上がり、又吉の挨拶と朗読から始まる。
詩や自身のエッセイの朗読を終え、進行役のパンサー向井が登場する。
すこし話をした後、カネコアヤノがゲスト出演する。私はこのためにやってきた。うれしい気持ちを抑えながら見守る。
遠くてぼんやりしか認識できなかったのだが、以前のロングヘアーではなくなりボブに戻っている。白いワンピースを着ていて本当に存在するのだと感動した。
又吉とカネコアヤノとの出会いの話や「閃きは彼方」についての話や創作の話をしていた。彼女がこうやって話を公の場所ですることはあまり見ないからとても興味深く面白かった。休憩のアナウンスがなる。向井が出てきて席から立ち体を伸ばしたついでに、座席の裏側を見るように促す。
どうやら、座席にテープが貼ってあり色によって景品が貰えるようだった。サインつきの「月と散文」とアヤノちゃんのアルバムとスミセイの何か。
私はどれも当たることはなかったが、前の席のご婦人が当たっていたようだ。
こうして一部が終わり、休憩が始まる。腰が砕けそうだったので少し席を立ち館内を散策した。時間が迫り、席に戻る。
二部はアヤノちゃんの弾き語りから始まる。大きな会場に彼女のギターと歌声が響く。
セットリストは
・タオルケットは穏やかな
・光の方へ
・アーケード
・祝日
・気分
・閃きは彼方
予想以上に演奏してくれて胸がいっぱいで序盤から涙腺にきてしまって、「光の方へ」から涙が止まらなかった。
就職が決まって全く違う職種でやっていけるのかという不安や家庭問題の不安、常に抱えているものがどっと溢れてしまった。
周りがおばさんしかいないので泣いてないふりをして静かに泣いていた。
弾き語りが終わり、二人の創作の話や、又吉が女性の気持ちになって作った「失恋カルタ」などの紹介もあった。
失恋カルタ、ものすごく解像度が高かったから商品化してほしい。
そうしてこうして楽しい時間が終わる。
みながおのおの駅まで帰る。急いできたのでなにも口にしていなかったことを思い出し空腹に見舞われる。
駅前まで歩き、適当に見つけたサイゼリヤにいきご飯をたべ、大阪に帰った。
座席に座ることができぼんやりしていると、座席から誰かが落としたポイフルが出てきた。

君たちはどう生きるか

先日、スタジオジブリ 宮崎駿監督作「君たちはどう生きるか」を見た。
公開が決まった日から絶対に見ると決めていたので、とても楽しみしていた。
風立ちぬ」が10年前。宮崎駿も御年82だ。恐らくこれが最期の作品になるような気がしている。
凄い映画だった。美しさの中に不気味さや恐怖を内包している。刃をこちらの喉元に突き付けながら、監督本人すらも己自身を突き付けているような映画だった。「私はこうした。君たちはどうするのか」とずっと問われている様な映画だった。
鑑賞直後、感じたことを言葉にするのが難しすぎて正直かくのも止めようかと思った。
けれど、二回目を見るまでに自分の気持ちを整理しないとまた同じような見方しかできない。
だからこれを書いている。考察とかあらすじ紹介だとかはほかの方の記事を読んでほしい。
ネタバレもそれなりにする。嫌な人はここまででやめておいて今すぐ劇場に行くことをお勧めする。
いや、見るべきだ。絶対に見たほうがいい。いつか見とけばよかったなって後悔するかもしれないなら絶対にみてほしい。
これが宮崎駿の作る最後の作品になるかもしれないんだ。我々には見る義務があるといっても差し支えないかもしれない。
それだけ、彼に影響をうけその才能を享受できたのだから。

まず、驚いたのが広告宣伝を全く入れずにポスターイラスト一枚しかでずに公開されたことだ。
現代の今じゃそんなのありえないし、広告代理店が腰を抜かしてしまう。スラムダンクもこの宣伝方法だったようだ。
恐らく、そんなことができるのはこの二作だけだと思う。
一般的には、キャストが公開されトレーラーやCMが放送されたりするのだが今回のジブリは「そんなものいるか」と言うかの如く、アオサギのポスターイラスト一枚だけだった。
あの一枚だけで想像力がむくむくと湧き上がってきたしまう。なぜアオサギなのか、主要なキャラなのか。アオサギがメインなのかとか。皆、思い思い考えたことだと思う。無論私も考えた。月並みには。
結論、めちゃくちゃ重要なキャラでした。アオサギの声優が菅田将暉とクレジットに書いていたときは本当にびっくりしました。全然、ちっともわからなかった。すごい。
この映画はセルフオマージュに溢れていてそれらをみつけるのも面白かった。ワラワラがとてもかわいかった。あのぬいぐるみほしいなぁ。
村上春樹と似ているなと思った。彼もオマージュ的部分が多くある。
両者、己の精神性と肉体の老いの隔離を認識している。かつ己の死を見つめているようにも思える。彼らが去った未来をどうするのか問われているような気がした。宮崎駿はアニメーションの神様であり開拓者である。アニメーションという虚構をつくりその中で生きていた。無論それは我々も。アニメーションからインターネットの虚構の中で生きている。
だが、彼はそれでいいのかと葛藤し、苦しみこれを作った。これでよかったのか、こう生きるしかなかった。この生しかなかったのだと。そして我々に問いかける「君たちはどう生きるか」と。自らの責任を果たしたように。
我々もこう生きるしかなかったのだろうかと苦しみ葛藤するだろう。彼ほど抱えるものはなくても。

私よりもわかりやすくとても参考にした方の記事を置いていきます。
http://宮崎駿の悲しみと問いかけ─『君たちはどう生きるか』|下西 風澄 @kazeto #note https://note.com/kazeto/n/nca1be7cd479c

7月31日

職業訓練校に通って、早一か月になる。早いもんだ。毎日が、勉強に追われている。もう嫌になりかけている。勉強がいやなわけではない。むしろ楽しいまである。が難しいし何より睡眠が足りていない。
万年寝不足で死にそうだ。一日が24時間がこんなに短いと思わなかった。働いているときのほうがぐっすり寝れていた気がする。勉強する時間を割きすぎて、右手が腱鞘炎になりかけているし、毎日ずっと座っているから腰も肩も首も痛い。満身創痍すぎる。整体に通ってはいるけど、一進一退で体がよくなっているのか、もうよくわからないけど行ったほうが確実にいいと思うので通っている。
学生という身分が大変久しぶりすぎて今になって気づいたのだが、どうやら私はある程度の人間の許容量を超えると、すぐに集中力が切れてしまう。仕事の時は全然気にならないのにこういう時はいかんせんダメみたいだ。
他人の呼気とかタイピングの音とか、視線とか何もかもが全く合っていない。イヤフォンをして外界からシャットアウトして勉強したい。ストレスの原因が主にそれを占めている。やめればいいと思うが、給付金とか就職支援とか諸々してくれる行政があるのでやめるとしたら就職して辞めるしかない。
このクソ熱い夏にスーツを着て市内を駆けずり回るなんて絶対に嫌すぎる。そういうことだから、まだ学校に通い続けるしかないわけである。
それにしたって、暑すぎる。人が生活できる暑さじゃない。ちょっとコンビニに行くだけで汗が出る。全身汗まみれでいやになる。最近は、家に帰るなり風呂に入っている。こんなに夏が嫌いなのに夏生まれだし。夏は踏んだり蹴ったりすぎる。

去年は、来年こそフェスに行って嫌いな夏を嫌いなりに楽しみたいと思っていたのにまだ私は大阪のビル群の排気ガスに塗れた町でパソコンと向き合っている。そうめんもそばも満足に食べれていないし、スイカだってたべていない。海に行って潮風で髪をべたべたにしながらビールだって飲みたいし、水着の女の子とやけに鍛えた男と家族連れを横目にビールを飲むことだってしていない。夏の醍醐味を味わっていないのである。最低限夏を感じるためにやたらめったらネバヤンとスチャダラパーばっかり聞いている。夏のせめて物抵抗、足掻きみたいなものである。
では、教科書とコードを見て頭を抱えながらそれと同時に、誕生月が差し迫っているから中旬にいいホテルに一人でゆっくり過ごしたい為に、ホテル探しも並行して行っている。これ以上ここにいると病むかなにか精神をきたしてしまうのでゆっくり養生するための準備をしている。場所は遠いところは疲れるのでまた飽きずに京都にいく。
夏以外は京都に住みたいほど京都が好きだ。理由はわかっていないが出鱈目に京都が好きなことは分かる。ゆくゆくは終の棲家にしたいなと思うほどに。
いろいろ書きたいことが、ありすぎて疲れてきたのでここらでやめにしておく。
熱中症に気を付けながら美味しいビールのために頑張りましょう。
では

無題

最近、夜にまた眠れなくなった。派遣の契約も終わり、職業訓練校の試験を受けた以外は特にやることもなく殆どを家で過ごしている。
午前には大体一度起き、朝ごはんかも昼ごはんかもわからないご飯を作って食べる。元気がある時は外に出て散歩をしたり川縁で本を読んだり、
ハローワークに行くこともあるのだが、ここ最近は急激に暑くなったこともあり昼に外に出ることは何か用事がない限り出ることがなくなってしまった。
夜のほとんどを映画を見たりして過ごしている。大体2本見終わるくらいで夜が朝に変わっていくので大抵はそのくらいで寝ている。
いくつか正社員の面接を受けてみたもののあまり良い返事はなく、とりあえずスキルを身につけるために訓練校の試験を受けてきた。

最近、絵も言われぬ不安感に取り憑かれて心臓がバクバクしていることが多くなった。落ち着いていることの方が多いのだが、そのようなことが多くなってきてまた不安が増長されるような気がしている。気にしない方が良いことは分かりきっているがそうもいかないのがこの生きづらさに繋がっているのだろう。
内面で変わったのかもしれないなと思った部分がある。前よりも人に興味や関心が減ったなと思うことがある。人の相談や悩みを聞いて返事を返せる程もう私は元気ではなくなったのかもしれない。もうなんでも、どうでも良くなったのかもしれない。
他人からは幸せだと思われる。現状私は幸せだと思う。定職に就けずにいるのに一緒にいてくれる彼と家があるのだから。
でもたまに何もかも放り出してどこか遠いところに行ってしまいたくなる。この前の京都に行ったのだって大阪にいるのが耐えられなくなったから。
どこに行っても人が多くて、その上ビルばっかり乱立していて空も狭いから嫌になってしまう。だから京都に逃げたのだ。帰る家があるからできることではあるが。
今の私もどこかに行って誰も知らないところで暮らしてみたいなとふと思うことがある。
でも現実はそう甘くないし、一人で生きていけるほど逞しくも慎ましくも強かでもない。
いや実際には一人で生きてはいけるけどそうなれば私はたちまち狂っていくような気がしているし、本格的に頭のネジがどこかに行ってしまうような気がしている。生活無能力者は誰かと共にしか生きていけないのだ。
さすれば、己が狂うことも社会に迷惑をかけることもないだろう。
今もまた東京に逃げたいなと考えている。次はいついけるだろうか。ここじゃないどこかにいつになったら行けるのだろうか。
   


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京都へ行く

日々の仕事のストレスと一人の時間があまり取れなかったこと、ずっと京都に行きたい欲が爆発して京都に行ってきました。
およそ一年ぶりの京都、いつもは二人で来ていたけど今回は一人。
京阪電車に揺られて行き、ホテルにチェックイン後少し休憩をし散歩をしました。おすすめしてもらった焼き鳥屋に行っていました。そこの焼き鳥がめちゃめちゃ美味しくて食べながら、今度は二人でこようと思いながら会計をして店を出て、今日一番行きたかったスペースねこ穴に行くまでに時間を潰そうと烏丸の方を目掛けて歩き、新風館に行ったりスタバで休憩をしながら開店時間を確認しようとグーグルマップを開いたらなんと月曜日は休み。
事前にチェックしなかった詰めが甘い私が悪いのですが、今日の晩過ごす所をもう一度探すために一度ホテルに帰ることにして歩きながら古着屋に行ったりずっと行きたかった半地下に行ってそこそこお腹もいっぱいになり程よく酔って来たのでホテルにいったん帰り休憩をした。
1年ぶりの京都、コロナが緩和され観光客が戻ってきて前までの活気のある京都が戻ってきたのだなと思った。
少し休憩した後、河原町のgood morning Record barに行きました。こことても楽しかったです。人種関係なく話す言葉も関係なくみんな騒いでてレコードもカネコアヤノやフレシノやVaVaなどの幅広いジャンルが聞けて良かったです。ここでは腕に今日入れたてのモール信号のタトゥーをしたお兄さんや、アパレルで働いている青年や立命館大学に通っている学生、観光で来ていた東京大学の留学生でスコットランド人の女性やマイアミから観光できた美人のお姉さんなどほんとにいろんな人が来ていていろんな話をしました。盛り上がってきてクラブに行こう!踊りたい!と言い始めたので危機を感じ会計と挨拶をして次へ向かう。それでもまだ時間は22時。時計を見てびっくり、気持ちは完全に深夜。
そのままホテルに帰るのもナンセンスだなと思いもう一件行くことに、どこに行こうかなと木屋町を散歩しているとちょうど路面店で店を開け始めた店員とばっちり目があいそのまま帰るのもカッコ悪いなとそこに入ることに
店員のお兄ちゃんは私と同い年で桃白白の亜種みたいな髪型をしていた。一人で京都に来た理由や彼のことやお互いのことを紙一枚くらい薄いことを話し、二杯飲んだところで常連さんがやってきてお会計をしてそろそろ帰路に着く。合間にコンビニに行きホテルに帰りゴロゴロしているとあっという間に深夜になりカーテンの隙間から少し明るい光が差し込んで慌てて眠りに着く。



朝になり、しっかり目覚ましで起きれた自分を褒めつつ、支度を始める。朝ごはんはどこにしようかな。とか考えながら支度していたらあっという間にチェックアウトの時間になり部屋を出て鍵を返し、重い荷物を預かってもらい街へ出る。
もうちょっと疲れていて考える頭が少なくなり始めたのでチェーンのガストに入りご飯をたべる。
窪美澄の新刊を持ってきていたので、読もうと昨日いったレコードカフェが営業していたのでそこで世間話とコーヒーを飲みながら忙しくなってきたタイミングで本を読み、キリのいいところで会計をする。
次はどこに行こうと思ったはいいもののこの日はかなり暑く辛かったので、結局鴨川の三条大橋の下で本を読むことにした。
影になっていて風も気持ちよく人通りもちょうどよく、とても快適だった。
時折休憩をしながら川を眺める。綺麗で心地よくてずっとここにいたくなる。いつも帰る時に鴨川にいる気がする。
大阪にはない広い空と大阪より綺麗な空気、住み心地も最高にいい。春と秋と冬はずっとここにいたい。
帰りたくないなぁと思い、帰る時間が来てしまったのでホテルに預かっていた荷物をとりに行き、うしろ髪引かれつつ電車にのった
大阪に帰り、大川沿いのリラックスできる人工芝があるところで仕事おわりの彼を待ち、彼とインドカレーを食べてながら出来事を話し帰った。

理解されている側の実態

以前、告知した「理解ある彼/彼女さんバー」ですが、一体全体理解されているとはなんなのか。

私自身、理解されているという自覚はありつつふんわりとしかわかっていない気がするので一度本番が来る前に私がどういった人間でこうなったのか紐解いて行こうと思う。

最初に私は一般的に発達障害といわれる部類の人間であり、大きな枠組みの中で私は発達障害の中の「ADHD、注意欠陥・多動性障害」と言われるものである。思春期の頃、自覚的に一般の普通とは違う生きづらさにぶち当たり高校を卒業した辺りで親に精神科に連れてってくれと懇願した辺りで判明した。
その頃も、服薬や障がい者手帳などを勧められたが両方とも取らずに今現在を過ごしている。
結果として、取らなくてよかったというのが正直な感想である。もちろん取った方が良い人だっている、あくまでも私はの場合の話である。

発達障害は目に見えない障害であるが故に隠すことができたり、ある程度社会性や社交性でカバーできる場合がある。だが、一度手帳を取ってしまうと私は「障がい者」というレッテルや枠組みでみられたり社会的に判断されやすくなると思っている。今ですら生きづらいのにより一層生きづらくなってしまう。
それを回避するために取らない選択をしたのだ。
今でもこの判断は間違ってなかったと強く思う。

私がADHDだとわかった時、正直安心した。

生きづらさや親から求められている「普通」になれないことが判明したからだ。
親は私に「普通」であることに執着し過干渉になった。
なれもしない「普通」の人生を生きてほしいと強く願った、その願いから逃れることができる材料ができたのだ。
実際、発覚した以降は「普通」を求めるのは諦めた様だった。
それでも、生きづらさからは逃げられない。普通ならできるようなことができたのにできないし、発達障害が原因でバイト先でいじめにあったこともある。
普通を求めるならそういう仕様に産んでくれよ。とも思った。

二十歳を過ぎて少しした後、あの時出会わない様な人たちと出会って「普通」に固執する必要はなかったのだと生き様や彼らとの会話でわかった気がした。
これは「障害」と捉えるより「特性・個性」と捉える方が生きづらさがマシになるのではないかと考えられる様になった。
「普通」に固執していたのは、親ではなく自分自身なんだと理解した時だった。
それからはある程度マシになりはしたが、それでもカミングアウトした時にいじめにあった過去があるしセンシティブな話題だと思うので初対面の人には言わないようにしている。

彼と出会って付き合い始めた時に自分が持っている特性を話した時、さも知ってますが?と特段驚きも狼狽えもせずに話をしたことが驚いた。
その時、この人は正しい知識があるんだなと思った。
なぜなら、こういう場合多くは哀れみや同情の目を向けてきたり、自分では荷が重いなといった顔をされることが多い場合があったからだ。
だが、彼にはそういった素振りは全くなかった。教師であったことも由来しているのだろうがそれでも嫌な顔ひとつせずに聞いてくれたのである。
後からそう話すと、彼からは「教師舐めるなよ〜」と言われたが。
最初のうちは、私の癖や特性があり過ぎて困らせることもあったがそれも今はほとんどない。
それと実家では理不尽に怒鳴られたりできないことに対して叱責されていたが、それもなく安心して過ごしている。
メガネが汚れていても、初デートの時に本を忘れても呆れられる、見捨てられるという恐怖心から離れることができたのは本当に良かったと思う。
自分が自分であるため、あるがままで生きていても侮辱も暴力や謂れのない屈辱も味わう必要がなくなった。
親と離れて暮らして、関係性も良くなった。お互いに辛い部分から離れることができたからだと思う。
おそらくこういうこともひっくるめて「理解されている」のであろう。

根本的な生きづらさは無くならないけど無くならないことに対して悲観的に捉えることなく、比較的楽観的に捉えることができるようになった。
このことはかなり大きな進歩だと思う。
今までの自分ではできなかったことだ。
というのが「理解されている」側の私であり、私という人間である。

彼のノートでは彼の視点や体験からいろいろ書いているので暇があれば是非読んでいただきたいです。


t.co

では来る27日バーエデンでお会いしましょう。